アイドル地獄変

○ふたり

帆奈美紀子（はんな　みきこ）と平山夢子（ひらやま　ゆめこ）は同じ「カケハシ興行」

の賭け出しのアイドルだ。共に19歳。

美紀子は１７０センチのロングヘアで、ボーイッシュで眼力が鋭く

女性ファンも多い。運動能力も高く、アイドルとしてはやや大人っぽいが、この先女優として

出世をどんどん続けていくだろうと業界の噂になっている。

もう一人の夢子は、背は１５５センチ、わりとまったりして童顔で華奢な体つきをしており、

前髪をくくってピョンと跳ねさせている。彼女はどんくさく天然という事で人気がある、所謂萌えると評判だ。

　だがまだ二人は二十歳で芸能界でひよっこなので仕事は選べない。上から色々なバラエティをやれといわれれば

断る事は出来ない。

元旦に、事務所で二人は鉢合わせをした。

「あ、美紀子さん、おはようございますッス」

「……」

夢子の言葉を無視するかのように美紀子は去って行こうとした。

「あ、違いますよね、あけましておめでとうございますッスよね！」

慌てて夢子は言う、美紀子は歩みを止めてゆっくりと振り返る。

「ああ、あけましておめでとう、じゃ……」

すぐに去られてしまった。

「私、嫌われてるんスかね……」夢子は呟く。

出会い当初は結構話をしていたが、日を追うごとに避けられているように感じる。

「はぁ、おなかすいたぁ……蕎麦も餅も食べて無いッス……」

ため息を一つついて、社長室へ向かう。

コンコンとドアをノックすると「どうぞ」と声がする。

ガチャリとドアを開け、おそるおそる夢子は顔を出した。

白ヒゲをたくわえた社長が椅子に座っている。

「やあ、由美子君か、どうしたね？」

「いや、社長、夢子ッス、それで、何かお仕事は無いかなと思って……」

「そのへんはマネージャーに伝えてある」

「それが、社長、あの……おなかが減りまして……お仕事無いとお金は入らないんで……」

「そうか、確かにげっそりしておる、隣の会議室に行ってみなさい、マネージャー達で会議をしておる。

何とか企画を作ってプロデューサーに嘆願しようとしているそうだ、マネージャーより立場は君のほうが上なんだから、

何か食べさせてもらうと良い」

「はい……」

　夢子は会議室のドアをノックした。

「会議中です」と冷たい声。

「自分っす、腹減りました」

と、部屋の中で笑いが起こる。

「わかりました、入って下さい」

夢子のマネージャーの佐々木の声がして、夢子は部屋に入った。

グー、キュルルー。

夢子の腹の音が鳴る。

「こりゃあ、夢子さんにも正月用イベント用意しないと餓死しちゃいますね」

他のタレントのマネージャーが笑いながら言った。

夢子はキョロキョロとあたりを見回しながら言う。

「とりあえず事務所（ここ）に食べるモノ無いっすか」

「生の人参なら冷蔵庫に入ってるがなぁ……人参食べますか？」

その言葉に会議室の冷蔵庫を開けて夢子はボリボリとそれを齧りだした。

「それ……生で大丈夫なんですか！？」佐々木は言う。

「ハラ減ってると、基本何でもうまいっす」

ボリボリボリ

その場に皆は引くどころか感心をしていた。これほど天然キャラの逸材がいるだろうか。

「そうだ、イロモノとここで言うのは失礼ですが、アイドルボクシング大会なんてどうですか？」

「それいいですね、知り合いのディレクターに頼んでみましょうか！」

「そうですね！　イヤー助かります、美紀子さんのマネージャーさん、Ｋディレクターと幼馴染で

直に意見を言えるんで」

皆が盛り上がって入る、夢子は人参をボリボリ食べ続けている。

（人参、うまいッス）　

マネージャーの会議等全く耳にいれていなかった。

とりあえずマネージャー陣は事務所の社長へ話を持ち込んで見た。

「うーん、駄目じゃな」

即答される。

「何でですか？」マネージャーの一人が言う。

「それはのぅ……十年前にも同じような企画をしてみてのぅ……結果から言えば、本気の試合になって

両者ただでは済まされん状態になってしまったからじゃ。正月番組で流血騒ぎはイカん、それと選手が……

所謂裏の人間だったのじゃ、地下女子ボクシングというところから引っ張ってきた選手だったらしい」

「大丈夫です！」佐々木は言った。

「夢子さんなら……言葉は悪いですが、どんくさいので流血になる前に面白可笑しく終わります！地下なんて

全く関係無いですし」

「ふむ」社長がひげを指でしごきながら言う。

「相手は誰じゃ？」

美紀子のマネージャーの木村が手を挙げる。

「あ、こちらの美紀子さんとどうでしょうか？　彼女はスポーツ万能ですので、試合が泥沼化せず、ガチに

ならずに済むんじゃないでしょうか、実力差があって絵的にも面白いと思います、それに使うのはもふもふの

大きなグローブで怪我も安心！」

「もふもふか！　うむ！」

こうやって本人達には知らされないままアイドルボクシングの企画とカードが決まった。

放送局のディレクターにも無事ＯＫが出されたのであった。

勿論他のアイドル達も試合を決めて、久々に事務所が潤うなとカケハシ興行のマネージャー達は安堵のため息を

吐いた。

○弾丸マネージャー佐々木とのほほん夢子

話がまとまってから、誰もい無い会議室にて。

「へ？　ボクシングッスか？」

佐々木が夢子へ仕事の内容を伝えると案の定驚いている。

「大丈夫ですよ、ガチの試合をさせる訳ないじゃないですか、ただのバラエティです」

「そうッスか……。イロモノってヤツッスね」

「まあ、そうなりますが、こういう茨の道を着き進んでトップを目指しましょう！」

佐々木は右手を差し出した。

夢子も右手を差し出してお互いに手をガッチリと繋ぐ。

その時、ぐぅーと夢子の腹が鳴った。

「ちょっと６８円で大根が売ってあったんで、それ買ってくるッス」

「夢子さん、また生で齧るんですか？　やめて下さいよ」

「腹減ってたら、基本何でもうまいッス」

夢子は数十分後に佐々木しかいない会議室でボリボリと生大根を齧っていた。

「なんかアルマゲドンが来ても、夢子さんは生きていけるような気がしますよ……」

佐々木はポツリとそう呟いた。

「そうしたら、全財産を持って行ってフランス料理のフルコースを食べるッス、そして死ぬッス」

「いや夢子さん、本当に地球が駄目になるんだったら、フランス料理店だって休みになりますよ」

「そうッスか……」

「まあそれは置いておいて、紅白対抗アイドルボクシング大会での夢子さんの相手は、美紀子さんになりますんで」

「ああ、聞いたッス。でも何だかなぁ……」

「どうかしましたか？」

「いや、何だか美紀子さんには嫌われてる感が有るんッス」

「そうですか？　おかしいな、確かに目つきはキツいですけど、まわりの人たちとは仲良くやっているハズですが……」

「そうッスか、自分の思い違いッスかね……」

「きっとそうですよ、自分の事を、気持ちを素直に出せる器用な人ってそうそういないんじゃないんですか？」

「ああ、じゃああの冷たい目線も、意図しているわけじゃないんスね」

そう言いながら夢子は大根をボリボリ齧る。

「夢子さん……」

「何っスか佐々木さん、真剣な顔して」

「夢子さん……」佐々木は夢子を見つめる。

「愛の告白ッスか！？」

「違います！おごりますんで今日位、まともなモン食べてください！？」

「おごりッスか？」

「ええ、焼肉行きましょう！」

「やったー！　一週間ぶりに大根意外の物食えるッス！」

「えっ、一週間！？」

「そうッス、葉っぱは浅漬けにして食べてたッス」

「それでそんなに華奢な体つきなんですか……栄養不足じゃないですか！」

「エヘヘヘヘ」

「いや……褒めてませんからね！」

二人はバンに乗り、焼き肉屋へ向かった。

車内で運転しながら佐々木はシケモクを吸う。

「ふー、社内禁煙なのが辛いですよ、こうやって煙をふかすと気持ちも晴れますよ」

「佐々木さん、何か悩みでもあるんッスか？」

「いや、僕の事じゃないですけど……もう言っちゃおうかな」

「ん？　何か隠し事ッスか？」

「ええ、実は帆奈美紀子さんの事なんですが」

「美紀子さんがどうしたんスか？」

「ええ、夢子さんと同期でしょう？　だけど稼いでる額があまりに違うんですよ、美紀子さんしこたま

稼いでるんですよ！　それが悔しくて」

「まあ私は才能無いんスからしょうがないッス」

「そうなんですか？……僕は悔しいんですよ、皆の前では明るく振舞ってたんですけど、今回のアイドル

ボクシング大会でも美紀子さんへの噛ませ犬の予定になってるんですよ、夢子さんがすぐにあっさり負けて

それが笑いに繋がるだろうって……悔しくないですか！？」

「いやー、全然自分、平気っす」

のほほんと夢子は返す。

佐々木は悔しさのあまり涙をこらえており、こめかみに血管が浮いている。

「ま、まぁまぁ」

「まぁまぁじゃないですよ夢子さん！　僕が僕の中で板挟みになってるんですよ！　仕事がもらえたから

食っていける、でもそれは夢子さんを僕が売り飛ばしたようなものですから！」

「いいんスよ、いいんス、今日の焼肉で十分ッス！」

と、佐々木が焼き肉屋への路線を変更した。

「ど、どこ行くんスか？」

「もうメッタに僕も行けない超高級焼肉店へ行くんです！　もう申し訳ないので！」

「さ、佐々木さんが大根齧るハメになるッス、普通のでいいッスから！」

「いや、止めてくださるなっ！　霜降り神戸和牛！」

弾丸のように突っ走った佐々木のバンはその店へと到着した。

「うわっ！　佐々木さん！　いい匂いがするッス！」

「そうでしょうそうでしょう、腹の虫が重さでくたばるまで食いましょう！」

有る意味、一旦火が付けば感情が激情に変わる佐々木と、まったりと色々な

出来事を受け止める事ができる夢子は相性が良いのかもしれない。

二人は座敷に通されると、向かい合って座りメニューを見た。

「一日１０名様限定ロース！？　今何時だ！」佐々木が携帯電話を取り出す。

「くっ、午後４時か、限定……間に合うのかっ！　店員さん！」

「佐々木さん、ここに呼び出しボタンあるっスよ」

「これか、店員さん！」

「マイクじゃないッス、押すんスよ」

「よしっ！」

「いや押して動かすんじゃなくて上からボタンを押すんッス」

ピンポーン

「はい、ご注文の方お決まりでしょうか」

店員はすぐに来て言った。

「この、一日１０名様限定ロース、まだありますか！？」

「御座いますよ」

「それ、まずそれをお願いします！」

「じゃあ私は野菜セットを……」そこまで言いかけた夢子を佐々木が睨む。

「野菜は散々大根かじったじゃないですか！　肉ですよニク！」

「は、はい。じゃあミノをお願いするッス」

店員はすぐにお持ちしますねと炭火に火をつけた。

二人の宴が始まった、ロックンロール。

○贅沢美紀子

ロックンロール中、美紀子は自分のマンションでワインを飲んでいた。

先程仕事の連絡でアイドルボクシング大会の事を聞いたが、嫌な顔一つせずにマネージャーにＯＫを

出した。

「ふふっ、平山夢子を敗者にするって筋書き、面白いわね」

そう独り言を言って窓から外を見る。

都会は夜中だというのにひどく明るい。そんな中雪がはらはらと振っている。

エアコン暖房のきいた部屋から眺める冬景色。

「のし上がらなきゃね……そして父を……」

そしてキッチンへ一人腰掛け、ミディアム・レアに焼いたステーキを食べる。松坂牛だ。

口の中で肉はとろけ、凝縮された旨みが口一杯に広がる。

「レイニャック（ワイン）も結構合うのね、これは覚えておかなくっちゃ」

静かに、淡々と食事を終え、トレーニングルームへ入る。

ランニングマシーンからベンチプレスと色々揃っている。

（私のフィニッシュブローで夢子はマットに沈む。果たしてその一撃が、芸能界を引退させるほど

強烈なものであったら？）

美紀子は拳を握り締める。

正月の生放送番組、生放送番組だ。誰も私を止める事など出来ない。

○ 練習風景

紅白アイドルボクシング大会の前日、バンに載せられて夢子が着いた先はボクシングジムだった。

「格好だけサマになってないといけないと思って……」佐々木は頭をぽりぽり掻きながら詫びる。

「何でも、ふもふ巨大グローブ使って戯れるだけなのにジムに通うハメになるんスか！」

夢子はプンスカ怒っている。

「でも、そんなに怒らなくても……」

「おっと、そうッスね、怒るとはらが減るッス」

「怒ってる理由ってひょっとして、動くと腹が減るから？」

「そうッス！　ビンボー人にはキツいッス！四畳半風呂無し、大根を齧りつつひっそりと生きてるッス！」

「今日５００円でやりくり出来ますか？　500円玉一枚有ったんですが」

「さあジムに入るッス！」

（切り替え早いなぁ）

佐々木は再度、頭をぽりぽりと掻く。

「やあいらっしゃい、私は高崎冬子、このジムのオーナーよ。かわいらしいのにボクシング？」

スラッとしたメガネをかけた女性が声をかけてきた。夢子はあしたのジョーの丹下のような人が出て来ると

思っていたので驚いた。格好もフォーマルだ。

「ここは女子ボクサーがほとんどなのよ」

「へぇ、そうなんスか、よろしくお願いします！」

夢子は深々と頭を下げた。

「たまにオバケが出るから気をつけてね」

「えっ？」

「ふふっ」冬子は夢子の驚く顔を見て吹き出した。

「まあ、悪いものじゃないわ、まあそれは気にしないで、さあ中へ入って」

「は、はい」

夢子は冬子に押されてジムの中へ入っていく。

「お元気で〜」

佐々木は呑気に手を振って帰って行った。

「さて、芸能界のスターの卵ちゃん、どこまで本気でやるの？」

冬子は笑いながら聞く。だが目だけは笑っていなかった。

「あの、その、自分は、その……ごめんなさいッス！　中途半端な気持ちッス、ここに来る事も知らされていなくて……」

「はい正直で宜しい」

冬子は夢子の頭を撫でた。

「あの佐々木さんっていうマネージャーさん、本気でテレビの筋書きを覆そうとしてるみたいね」

「えっ？」

夢子は顔を上げる。筋書きを覆すとはどういう事なのか。

「つまりね、貴方を相手に勝たせるように本気でしごいてくれっていう依頼して来たって事」

「勝つ！？　そんな事して大丈夫ッスかね！？」

「さぁ？　テレビの事は私はわからないもの。ただ貴方も聞いてるかどうか知らないけど、過去に事故が起こってしまって」

「事故？　何の事故ッスか？」

「十年前、アイドルがテレビでガチの女子ボクシングをしてしまってね、それも生放送で」

「誰かお亡くなりになったんスか？」

「そんな莫迦な」冬子は笑った。夢子と近い年齢のようだが、大人っぽい魅力の篭った笑い方だった。

「流血試合でしょ？　苦情が凄まじくて、当時の島崎っていう大物プロデューサーが降ろされたとかどうだか」

「島崎さん、大物らしいッスね、テレビに自身もよく出てた記憶はあるッス。名前は知ってますね。はぁ、そりゃいかんッスね」

「何でも地下女子ボクシングっていうところがあって、そこから引っ張ってきた選手だったみたい。

国民的アイドルの資質もあったみたいだけど」

「はぁー、こくみんてきあいどる」

「ま、とりあえず練習しましょうか」

「はいっス。でも練習っていっても、もふもふの大きなグローブの打ち合いでガチでノックアウトって有るんスか？

「それなりに威力あれば鼻血くらいは出るもんよ？　例えば凄い勢いに水に人を叩き付けたらどうなる？」

「ああ！」

「そゆこと、で、相手の帆奈美紀子さんのデータが残ってないかネットワークで探し回ったけど無かった。ボクシング経験無いみたいね」

「となると、コソ練していた私か勝つという事ッスね！」

「そゆこと！　バランス感覚から行きましょうか、本番に合わせて、安全な練習をしましょう」

「構えはこう、ジャブにフックにストレートにアッパー！　ッス！」

俊敏な動きで夢子はパンチを繰り出した。

「ああ、凄いじゃない！　貴方！　ボクシングやってたの！？」

○ 美紀子の企み

美紀子は今日のスケジュールを華麗にこなしてコーヒーを飲んでいる。と、電話がかかってきた。

近くにある子機を耳に当てて「もしもし」と声を発し、すぐに緊張したた表情になった。

「お父……さん？　うん、元気。久々に電話なんてよこすものだからびっくりしちゃって。

うん、ボクシング。あの企画をぶっ潰してやるんだ。お父さんの事の復讐でもあるからね、私は

やるよ、うん、それじゃ」

ピッと電話を切る。そして木村マネージャーに電話をかけた。

「あ、私。木村マネージャー、明日、わかってるわね。そう、終わった試合のグローブは全部焼却を速やかに行う事。

そして何故か本物のボクシンググローブしか無い。それと作成前のマウスピースも用意しておいて、うん」

1月４日になった。番組生収録の開始だ。

「はい、紅白アイドルボクシング大会〜」

どこかで見た事のあるお笑い芸人が司会を勤めている。

裏で出番を待つアイドル達は水着姿で寒い寒いと体を擦っている。

夢子は美紀子にあえて近寄って見た。

「あの、今日は試合よろしくお願いしますッス」

「あ、ああ貴方ね、よろしくね」

今日は思いのほか愛想が良い。夢子は逆に不安になった。

（何か企んでる匂いがするッスね……）

ほがらかな雰囲気の中、若手アイドル達がぽこぽこともふもふのグローブで打ち合いをして転んだりし、皆の笑い声が

聞こえてくる。

（気楽なモンッス、でもこういう馬鹿な企画でもやってけにゃアイドルのてっぺんは取れないッスよね）

しばらく待っていると、会場がざわめきだした。

夢子は舞台裏から客席の方を見ると、真ん中にリングが有り、花道が通りその回りを客がグルッと囲んでいる。

「最後の対決、夢子ちゃんと美紀子ちゃんなんですが、えーと、どうしたら良いものか……」司会進行役のお笑い芸人が焦っている。

「どうやらもふもふのボクシンググローブが急に紛失されたとの事です、どうしましょ……あ、有ったようです」

会場のざわざわは収まらない。「これは……」司会者が絶句した。

「これは本物のボクシンググローブじゃないですか、危険ですよね！　え？　マウスピースも用意してある！？　ガチじゃないですか」

舞台裏から見ている美紀子が言う。

「やったわね！　遂にお膳立てが揃ったわね！」

「お膳立て？　美紀子さん、どういう事ッスか？」

関係者がひそひそと話し合いを始める、そして五分ほど経った後、舞台裏に一人のスタッフが来て言った。

「申し訳ないんだけれども、君たち普通のサイズのボクシンググローブで、マウスピース装着して試合してくれないかい？

で、夢子君は一発でノックダウンしてね、危険だから、はいマウスピース作成用のお湯、呼んだらすぐ出て欲しいから

マウスピースすぐに作ってね！」

スタッフはお湯の入ったタライを置くと去って行った。

「さあ夢子さん、お湯にこれを浸せばいいの」

美紀子がマウスピースの作り方をレクチャーして来た。

「そうなんスか、はい、浸しました」

「それでちょっと熱いけど、くわえて外から押して歯型をとるの」

「はい、あんぐ」夢子は美紀子の見よう見真似でマウスピースを作りあげた。

「おげっ、ゴム臭いし違和感で吐きそうっス、懐かしい」

「懐かしい？　哺乳瓶のゴムの匂いでも思い出したのかしら？　我慢する事ね、すぐに吐き出させてノックダウンさせてあ

げるから、再起不能な程にね」

美紀子がそうサディスティックに笑うとアナウンスが響いた。

「それでは紅白アイドルボクシング大会の最後の試合となります！夢子ちゃん、美紀子ちゃん、スタンバイお願いします！」

二人はリングの中央へ踊り出た。

何ともおざなりだがそれも当然、たかがアイドルの戯れボクシングの為の会場だからだ、レフリーもいない。

「じゃあゴングだけ鳴らしますねー、本気で殴り有っちゃ駄目ですよー、危ないですよー」

客はワイワイと盛り上がっていたが、スタッフたちは顔を青くしている。十年前の再来だ。

流血戦になってしまうのか。

カーン

ゴングが鳴った

○ 地獄編

バキッ！　ゴングが鳴ると同時に美紀子の右フックが夢子の頬を貫き、夢子の口から唾液がほとばしる。

（あ、これガチじゃないッスか、これじゃあ話しで聞いた十年前の話といっしょッスね……）

ぐっと夢子はふんばって耐え、構える。

「ほう？　いっぱしに構えだけはちゃんとしているわね」美紀子があざけ笑う。

「何が望みッスか？」その言葉に、美紀子は表情を変えずに拳を高々と挙げた。

「一つ、十年前にアイドル同士でガチボクシングをやった島崎プロデューサーは正しかったという事！　

こんな時代だからこそ、アイドルがガチバトルを行う番組ができる。島崎は時代を先取りしていただけで

何の罪も無い。なのに、今後のテレビ界に影響をこうやって与えているのに何故不当解雇をされたのか。

見て見なさい！　視聴率を！　今、この時代ではグングン上がってるハズよ！」

「おい、視聴率二桁いったぞ！」

プロデューサーがそれを聞いて戸惑っている。

「そう、私の本名は島崎美紀子！　島崎プロデューサーの娘！　十年前のあの番組は間違っていなかったと

思い知らせる為に書かれた筋書きよ！」

今も映像は様々な媒体で生放送されている。視聴率も確実にグングン上がっている。

何の当たり障りも無い正月番組に飽きた人がこぞって見ているらしい。

「そしてもう一つ！　夢子さん、貴方は天然ボケをウリにしてのほほんとしながら芸能界を渡っていける

と思って入るんでしょう、そういう甘えた奴が大嫌いなの、私。　叩きつぶしたいの！」

「確かに自分は天然ってよく言われるッスけど、うわっ！」

ビュンと大鎌のようなフックが夢子の顔スレスレに飛んできた。

「ボクシングジムに行ったって情報は入ったけど、わりと本格的にパンチを避けるじゃない？」

「避けるのは自身あるんッス」

「それと、台本道理に食らってもらう。本気でガチの一発。鼻血くらいは我慢してよね」

ぐしゃぁぁぁぁぁぁっ！

「ぶふぇっ！」夢子が１８０度回転して唾液の飛沫が客席に撒き散らされた。

キャーキャーと女性の怯える声が響き渡る。

ダンッ！

夢子は踏みとどまる。

鼻血がツツーッと滴り落ちた。

「倒れなくて悪かったッスね、美紀子さん」

「何をしてるのよ、せっかくある程度手加減して殴ってやったのに、もう一発喰らいたいの！？」

「悪いけどこっちも殴るッス。これは貴方のお父さんのプロデュースした企画の続きッス。本来なら

こうやって視聴率が上がって試合が白熱して行く、そう、筋書き通りに！　これでいいんッスよね！」

「あんた……」

「それと昨日ボクシングジムへ言ったッスが、経験者では無いとは誰も言って無いッス、マネージャーの

佐々木さんも知らないでしょうスけど、一時期プロボクサーだったんで、色々知らないフリしてたスが」

「何っ！」

「挫折したんス。拳がやられて。夢を追いかけて追いかけて、……挫折して……気付けばアイドルの道へ

進んでたッス。沢山の人間に囲まれて仕事をすれば何か掴めるんじゃないか、それとも寂しさからかはわからない

ッス。ただ、気付いたらこうなってたんッスよ」

夢子の瞳から涙が一粒ポロッと零れ落ちた。

「しかし、口では何とも言えるッッ！」

美紀子は夢子に襲いかかる！。

すぐに夢子はパンチをスウェイバック（のけぞり）でかわす。

そののけぞりの状態から元の体勢に戻る勢いで夢子はフックを放った。

ぐしゃぁっ！

美紀子の口からマウスピースが盛り上がり、口との隙間から唾液が飛び散る。

ダンッ！

美紀子が踏みとどまる。

「ぶほっ……と……やるじゃない……人は見かけによらないものね」

「へへへ、やっぱり一度砕けた拳は痛むんスけどね……」

「楽しいじゃない、ただのもやしっ子じゃなかったなんて、そして父の作ったお膳立てで

ガチの試合が出来るなんて……最高よ、負けないわ」

「私も負けないッス！」

　バキッ！　ドカッ！　互いの殴り愛が続く。

「ペッ！」

夢子が血のツバを吐いた。

「どうしたら良いんだ、数字は取れてるけど苦情も凄まじいし」

Kディレクターは頭を抱える。

そんな彼の方を後ろから叩く人がいた。

振り返ると、姿を十年間くらませていた島崎プロデユーサーだった。

「これは私の受けるべき仕事の続きだ、ディレクターのクレジットを私に書き変えろ、全責任は私がとる」

「はっ、はい」

Kディレクターは腰が抜けそうになりながらもそれを伝えるために奥に引っ込む。

そして島崎は自分の娘の戦う姿を傍観し始めた。

試合は、夢子の拳が痛み出した事によってパンチを思い切り打てず、美紀子にメッタ打ちになっていた。

スバッ、グシャッ！

「プおぅっ！」

血が上外に飛び散る。

「きゃーっ！」血を浴びた女性が叫ぶ。

試合を終えたほかのアイドルもあっけに取られてその様子を見ている。

「この拳が、拳のせいで……くぅーっ！」

夢子は痛みに顔をしかめながら搾り出すような声で言う。

「この試合は私が勝つでしょうけど、芸能界のライバルとして見てあげてもいいわよ」

美紀子はさっぱりとした顔で言う。

「いや、認めてくれるのは嬉しいッス、でも」

「でも？」

「勝つのは私ッス！　うぉぉぉぉぉ！」

グジャアッッッ！

「ぶ……ほ」

血の塊を吐き出して美紀子はダウンした。

「う……ぐ……なかなかやるじゃない」

自分の足をバンバン叩きながら美紀子は立ち上がった。

お互いにマウスピースは血まみれになっている。

視聴率がぐんぐん伸びて１８％になった。

「どうなるんでしょうか、これは本当にガチの試合になりました、私にも予測がつきません！」

司会者が何とかコメントをねじ込む。

「最強のアイドルになるのは私よぉぉぉぉぉぉっ！」

美紀子が低位置からのアッパーをぶち抜くように打った。

グワッシャァァァァ！

「ぶほぁっ！」

虚空に夢子のマウスピースが吐き出され吹き飛んだ。

それはリング外に落ちるとビターン！　ビタンビタンビタンと跳ね始めた。

「やだ！　こっち来ないで！」女性の観客が叫ぶ。

「ほら、はぁ、はぁ、アイドルのくせにあんな汚くて血まみれなものを吐き出しちゃっていいの？」

肩で息をしながら美紀子はニヤッと笑う。

と、そのままダウンしそうな夢子が足をふんばる。

足の筋肉を無理に使い、筋肉が悲鳴をあげる。

「つッッ！　どりゃぁぁぁぁぁ！」

ぐじゅぅっ！

夢子は起死回生のストレートを打ち、それは美紀子の顔面にめり込んだ。

「ぶへぇぇぇぇっ！」

血みどろのマウスピースが上外へ飛んで行く。

それは一番後列で見ていた女性の膝に置いてあるカバンの上に赤い跡を付けてビタンッ！と跳ねた。

「キャーッ！」

悲鳴が聞こえてくる。

「血みどろのマウスピース位でねぇ」

「へへ、ねぇ」

美紀子と夢子が言葉を交わす。

グワシャッ、グシャッ

醜い打ち合いは続く。

じきに観客も慣れて着たようで、ワッショイワッショイと声をかけるようになった。

それそれの派に分かれてワッショイワッショイ。熱気が凄まじい。

血と唾液が飛び散る中、二人はなかなか倒れなかった。

「マウスピースはいちゃったから口の中ズタズタね」美紀子が笑いながら言う。

「私なんて、ペッ！」

夢子がコトーンと奥歯を吐き出した。

「あらごめんなさいね、そんなに強力だったかしら」

「そりゃあもう……」

グシャッ！　グワシャッ！

打ち合い二人の両目が塞がってきた、顔は腫れあがっている。

頬も腫れで膨らんでいる。

とてもアイドルの顔とは思えない。

「最後に一発だけ……打てそうな気がするわ」

「そ、そう、奇遇ッスね、私もあと一発は打てそうな気がするッス……」

グヂャッ！

クロスカウンター状態になってお互いの顔面にグローブがめり込む。

「ぶはぁっ！」

「げはぁっ！」

二人が虚空に血を吐いた。そのまま仰向けにダウンしてダブルノックダウンとなった。

（ありがとう美紀子、そして夢子君。私は間違っていなかった事を証明できたよ、これで

思い残す事無くこの世界から去れる）

島崎はそう思いながら、去って行った。行き先は美紀子にも伝えられてい無いらしい。

○昨日の敵は

「顔がパンパンッス、これじゃ正月番組他に出れないっす」

自分の下宿で鏡を見ながら夢子は顔にクリームを塗っている。

トントン

ドアがノックされる。

「何ッスかね、誰にも合えない顔なのにもうなんだよどちら〜さま〜」

ドアをあけると美紀子が立っていた。顔に湿布を貼りまくっている。

「もう、アンタのせいで顔ボコボコになって正月の番組全部キャンセルよ！」

開口一番、そう言われた。

「何ッスか？　嫌味を言うためにわざわざ来たッスか！？」

「いや、まあライバル……敵に塩を送るようなものよ……」

そう言ってダンボール箱を差し出してきた。

夢子が開けると、そこには生の大根がぎっしり入っていた。

「おお、大根じゃないッスか！」

「こんなものでいいの？」

「いいッス、感謝ッス」

「あがっていい？」

「いいッスよ」

ちゃぶ台を囲んで二人は座る。

「まあ、あの……色々ありがとう、父の事も理解してくれて……」

美紀子が切り出す。

「あ、ああ……気にしなくていいッスよ、志半ばにっていうのは自分もボクシングで体験したッスから

ノっただけの話しッスよ」

「そう、父はあれからどこへいったのか分からないけど、幸せだったと思うわ」

「そりゃあよかったッス！」

「ところであなたのご両親はどんな方だったの？」

「はは、ウチッスか、両親が早くに亡くなったんで中学生から一人暮らしッスよ」

「……聞いちゃいけなかったな。ごめん」

「いいッスよ、私は強いッス、挫折を乗り越え挫折を乗り越え、一人で、一人で……」

「な、泣くか？　泣くのか？」

美紀子が慌てる。

「大丈夫ッス……一人なんて、慣れて……るッス……もう……平気ッス……」

急いで美紀子は夢子を抱擁した。

「うっうっ……うぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」

嗚咽の漏れる声が聞こえる。

「あなたも大変だったな……」

「ふぇぇぇぇぇぇん、ふぇぇぇぇぇぇん」

「よしよし」

頭を撫でてやる。

しばらくして泣き疲れて夢子は眠ってしまった。

「ライバルか……」

ひざまくらを枕に変えて毛布をかけ、そっと美紀子は部屋を出て言った。

○ アイドルらしからぬ毎日

「夢子さんっ何食べてるんですかっ！　前ギャラ入ったんだからまともな物食べてくださいっ！」

佐々木が叫ぶ。

ぼりぼりと大根をかじりながら夢子は言う。

「ハラ減ってると、基本何でもうまいっす！」

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　END